古代中国四大美人と世界三大美人
*古代中国四大美人:楊貴妃・西施・王昭君・貂蝉
*世界三大美人:クレオパトラと楊貴妃に、ヘレネ(日本では小野小町)が加わる)
傾国の美人、楊貴妃
楊貴妃(ようきひ、718年(開元7年) - 756年7月15日(至徳元載(元年)6月16日))は中国唐代の皇妃。姓は楊、名は玉環。貴妃は皇妃としての順位を表す称号。玄宗皇帝の寵姫。玄宗皇帝が寵愛しすぎたために安史の乱を引き起こしたと言われたため、傾国の美女と呼ばれる。古代中国四大美女(楊貴妃・西施・王昭君・貂蝉)の一人とされる。現代でも世界三大美女の一人とされている。(クレオパトラと楊貴妃に、ヘレネ(日本では小野小町)が加わる)
出生
蜀出身。本籍は蒲州・永楽にあったという。蜀州司戸の楊玄淡の四女。兄に楊銛、姉に後の韓国夫人、虢国夫人、秦国夫人がいる。幼いころに両親を失い、叔父の楊玄キョウの家で育てられたという。
生まれながら、玉環を持っていたのでその名がつけられたというものや、涙や汗が紅かったという伝説がある。
また、広西省の庶民の出身であり、生まれた時に室内に芳香が充満し、あまりに美しかったので楊玄淡に売られたという俗説もある。
寿王妃から女道士へ
735年(開元23年)、玄宗と武恵妃の間の息子(寿王李瑁、第十八子)の妃となる。李瑁は武恵妃と宰相・李林甫の後押しにより、皇太子に推されるが、737年(開元25年)、武恵妃が死去し、翌年、宦官・高力士の薦めで李璵が皇太子に就任した。
その後、玄宗に見初められ、740年(開元28年)、長安の東にある温泉宮にて、一時的に女冠(女道士)となった(このときの道号を太真という)。これは息子から妻を奪う形になるのを避けるためであり、実質は内縁関係にあったと言われる。その後、宮中の太真宮に移り住み、玄宗の後宮に入り、皇后と同じ扱いをうけた。
楊玉環は、容貌が美しく、唐代で理想とされた豊満な姿態を持ち、音楽・楽曲、歌舞に優れ、利発であり、玄宗の意にかない、後宮の人間からは「娘子」と呼ばれた。
楊貴妃となる
745年(天宝4載)、貴妃に冊立され、兄・楊銛は殿中少監、従兄の楊錡は駙馬都尉に任じられる。馬に乗る時は、高力士が手綱をとって歩き、彼女の院に絹織りの工人が七百名もいた。また、争って、様々な献上物を贈られた。そのため、「男を生むとも喜ぶなかれ。女を生むとも悲しむなかれ」という歌が民間で流行ったといわれる。
746年(天宝5載)には、嫉妬により、玄宗の意に逆らい、楊銛の屋敷に送り届けられた。しかし、玄宗はすぐに機嫌が悪くなり、側近をむちで叩き始めるほどであったため、高力士のとりなしで、後宮に戻ってきた話が残っている。それから、玄宗の寵愛を独占するようになった。その後、范楊・平盧節度使安禄山の請願により、安禄山を養子に、玄宗より先に拝礼を受けた逸話や、安禄山と彼女の一族が義兄弟姉妹になった話しが残っている。また、天宝7載(748年)には、三人の姉も国夫人を授けられ、楊銛は、上柱国に、またいとこの楊国忠も御史中丞に昇進し、外戚としての地位を固めてきている。
750年(天宝9載)に、また、玄宗の機嫌を損ね、宮中を出される。(一説には、楊貴妃が寧王の笛を使って吹いたからといわれる)。しかし、吉温が楊国忠と相談の上、取りなしの上奏を行い、楊貴妃も髪の毛を切って玄宗に贈ったため、玄宗は高力士に楊貴妃を呼び返され、さらに愛情は深まったという。751年(天宝10載)、安禄山が入朝した時、安禄山を大きなおしめで包み、彼を女官に輿に担がせ、「安禄山と湯船で洗う」と述べ、玄宗を喜ばせた。しかし、その後、安禄山と食事をともにし、夜通し宮中に入れたため、醜聞が流れたという。
752年(天宝11載)、李林甫の死後、楊国忠は唐の大権を握り、この頃、楊銛と秦国夫人は死去するが、韓国夫人・虢国夫人を含めた楊一族の横暴は激しくなっていった。また、楊国忠は専横を行った上、外征に失敗し、大勢の死者を出し、安禄山との対立を深めたため、楊一族は多くの恨みを買うこととなった。
安史の乱と最期
755年(天宝14載)、楊国忠と激しく対立した安禄山が反乱を起こし、洛陽が陥落した。(安史の乱)。この時、玄宗は親征を決意し、太子・李亨に国を任せることを画策したが、楊国忠・韓国夫人・虢国夫人の説得を受け、楊貴妃は玄宗を思いとどまらせたという。その後、唐側の副元帥である高仙芝は処刑され、哥舒翰が代わりに副元帥となり、潼関を守った。
756年(至徳元載)には哥舒翰は安禄山側に大敗し、捕らえられ、潼関も陥落した。玄宗は首都・長安を抜け出し、蜀地方への出奔することに決め、楊貴妃、楊国忠、高力士、李亨らが同行することになった。
しかし、馬嵬(陝西省興平市)に至ると、乱の原因となった楊国忠を強く憎んでいた陳玄礼と兵士達は、楊国忠と韓国夫人たちを殺害した。さらに陳玄礼らは、玄宗に対して「賊の本」として、楊貴妃を殺害することを要求した。玄宗は、「楊貴妃は深宮にいて、楊国忠の謀反とは関係がない」と言って、かばったが、高力士の進言により、やむなく、楊貴妃に自殺を命ずることを決意した。高力士によって、楊貴妃は縊死(首吊り)させられたという。
玄宗は後に彼女の霊を祀り、長安に帰った後、改葬を命じたが、礼部侍郎・李揆から反対意見があり、中止となった。しかし、玄宗は密かに宦官に命じて改葬させ、彼女の絵を朝夕、眺めていたという。
長恨歌と長恨歌伝
楊貴妃死後50年経った、806年(元和元年)頃に、玄宗と楊貴妃の物語を題材に、白居易が長編の漢詩である『長恨歌』を、陳鴻が小説の『長恨歌伝』を制作している。
きっかけは、王質夫をいれた三人で仙遊寺に見学に赴き、その時、楊貴妃が話題にのぼり、感動した王質夫が白居易に、後世に残すために読みあげることをすすめたためであるという。また、白居易も陳鴻に物語として伝えるようにすすめたと伝わっている。
内容は、以下のようである。
楊貴妃の栄華と最期について語った上で、楊貴妃の死後のこととして、玄宗が道士に、楊貴妃の魂を求めさせる。道士は魂となり、方々を探し、海上の山に太真という仙女がいるのをつきとめ、会いに行く。それこそが楊貴妃であり、道士に小箱とかんざしを二つに分け、片方を託し、伝言を伝えた。玄宗と楊貴妃が七月七日、長生殿で、「二人で比翼の鳥、連理の枝になりたい」と誓ったことと、この恨み(思い)は永遠に尽きないだろうということであった。(比翼連理の故事)
『長恨歌』は、広く世間に流布した。このため、楊貴妃の物語は後世にまで広く伝わり、多くの文学作品に影響を与えた。