中国咸陽観光・咸陽旅行・咸陽博物館観光
咸陽観光案内-咸陽観光・咸陽旅行・咸陽博物館観光
咸陽概況:
咸陽市(かんよう-し)は中華人民共和国陝西省に位置する地級市。
かつては秦朝の首都として大いに栄えた。
風水においては山,丘,阜などの南側、河、江、川、湖などの水辺の北側を陽と言う。
この都市は九嵕山(きゅうそうざん)の南、渭水の北に当たり「咸(みな)陽」なためにこの名前がついた。
咸陽の人口と面積:
咸陽市の総面積は10196km²で、km²で、咸陽市の総人口は504万人である。
咸陽市の歴史:
前352年に秦孝公が咸陽城を作って都をここに移した。その後、秦の始皇帝により阿房宮造営の大規模な工事が行われ当時としては稀な巨大都市になっていった。
始皇帝死後も工事は続けられたが、二世皇帝胡亥・三世子嬰の代になっても阿房宮は未完成のままであった。紀元前206年に阿房宮は項羽により焼き払われたというのが、現代までの定説であったが、2003年に焼き払われてはいないと言う説も登場した。ちなみに、その後、楚漢戦争に勝利した劉邦により、咸陽郊外の長安を前漢王朝が首都に定め長安が繁栄していった。
咸陽市の友好都市:
日本 千葉県成田市
咸陽観光地案内:
咸陽博物館:
咸陽博物館は明代の孔子廟の遺跡に建てられ、1962年に正式に開館した。
咸陽市は西安から28キロメートル離れた秦の都である。秦の始皇帝は咸陽を砦として、中国最初の統一された多民族の中央集権的封建国家を樹立した。始皇帝は国家統一後、全国に馬専用の道を作るように命令した。主な道は3つあり、いずれも咸陽を起点として、東は河北、遼寧、山東に達し、北は内蒙古自治区に達した。これらの道は全国の物流、軍の移動、全国の統一を固めるのに大きな役割を果たした。
中央政府の支配力を固めるために、始皇帝は咸陽の北坡に六国特色の宮殿を建てる命令し、六国の王族たちをその中に軟禁した。また二万世帯の六国の貴族、金持ちを咸陽に移した。咸陽市は当時、人口100万人近くの大都市になった。
漢代、咸陽は西北に通じる交通要所であると同時に、前漢の王室の陵墓区でもあった。
前漢の11皇帝のうち9皇帝が咸陽に葬られた。その皇帝の陵墓の付近には多くの皇帝親族、大臣、将軍の陪塚もあり、咸陽の地上地下には秦、漢代の文物が数多く残されている。
咸陽博物館は主に秦、漢代の文物が展示されている博物館である。建築面積は3855平方メートルで、陳列面積は1716平方メートル、保存されている文物は1.5万点、展示されている文物は4000点、7つの陳列室がある。
第一展示室
主に、秦代の生産用具、兵器、度量衡、少数の生活用具が展示されている。
第二展示室
秦の咸陽一号宮殿から出土された文物が展示されている。
第三展示室
秦の咸陽三号宮殿から出土された文物が展示されている。
第四展示室
創漢時代の文物が展示されている。
第五、六展示室
楊家湾の漢の墓から出土した彩陶の兵馬俑が展示されている。
第七展示室
前漢の皇帝陵墓から出土して文物が展示されている。