西安観光・西安旅行・西安兵馬俑観光・西安観光案内・西安旅行情報
西安概況:
西安市(セイアン-し)は中華人民共和国陝西省の省都であり、古くは中国古代の諸王朝の都となった長安である。国家歴史文化名城に指定され、世界各国からの観光客も多い。経済的重要性から大幅な自主権をもつ副省級市にも指定されている。
西安の歴史:
隋、唐の都となった。1369年明の太祖は元の奉元路を廃して西安府を設置し、西安の名称が始まった。1898年の義和団事件では西太后ら皇族が北京から避難した。中華民国下の1928年西安市が成立。
日中戦争中の1936年には国共合作による日本政府への対抗を目指す張学良が蒋介石を軟禁した事件の舞台となった(西安事件)。
1954年に陝西省都、副省級市となった。
2004年西安の西北大学が日本人遣唐留学生井真成の墓誌を市内から発見したと発表して話題を呼んだ。
西安の気候・地理:
中国関中平原の中部に位置し、北に渭水が東西に流れ、南は秦嶺山脈が東西に走っている。総人口約680万人のうち市街地人口は約300万人を占める。温帯大陸性気候で、年平均温度は13度である。
西安の面積:
西安市の総面積は9983km²、西安市の市区面積は1166km²である。
西安の人口:
西安の総人口は716万人、西安の市区人口は424万人である。
西安の市樹と西安の市花:
西安の市樹はエンジュ、西安の市花は石榴(ザクロ)である。
長安について、
前漢~北周
秦滅亡後の戦乱を制して漢を建てた劉邦は、破壊された咸陽の郊外に新たに首都を建設し、長安と名付けた。漢の恵帝が城壁を築いた。長安城の南側は南斗、北側は北斗の形をしていたため、人々は長安城を「斗城」と呼んだ。長安城には九の市、十二の門があり、城内には未央宮、長楽宮、北宮、桂宮といった宮殿があった(『三輔黄図』)。漢の建てた長安はいびつな形をしていたが、前漢、新、後漢(滅亡前の数年間)、前趙、前秦、後秦、西魏、北周の時代に首都がおかれた。
隋唐
北周を滅ぼした隋の文帝(楊堅)は、生活環境の悪化や政治的思惑からこれまでの長安を廃止し、その郊外龍首原に新たな首都を建造した。新たな都城造営の設計プランを担当したのは、宇文愷(555年 - 602年)である。
はじめ大興城(だいこうじょう)と呼ばれたこの都市が、隋と唐の首都国際都市として有名な長安の都である。中央の朱雀門街を挟んで、左街に54坊と東市、右街に54坊と西市、総計110の坊市からなる条坊都市であった。
後述される日本の平安京とは異なり、長安城内では、各坊の四囲にも高い牆壁が取り囲んでおり、その門は夜間になると閉じられ坊外の通行は禁止された。また、龍首原は、北から南に向かって、6段に分かれた台地状の丘陵であった。設計者の宇文愷は、それを周易の六爻になぞらえて都市プランを考えたとされる。つまり、天子の位に相当する九二に宮城を置き、九三の君子の位には皇城を配置した。さらに、周易においては九二よりも上の最上位とされる九五の丘には、庶人を住まわせると災いの元と考え、国寺である大興善寺と道観の玄都観とを置いて、国家の安泰をはかったという。
最盛期で人口100万人とも言われる大都市に発展した長安であったが、同時に致命的な弱点も抱えていた。それは食糧問題である。狭い関中地域のみでこの膨大な人口を支えるだけの食糧生産は不可能であり、江南から大運河を通じて大量輸送を行うか、朝廷そのものを食糧搬入が容易な場所に一時的に避難させる(洛陽に副都を置いた理由の一つである)事でしか解決策を見出せなかった。だが、安史の乱以後は政治的不安定から大運河そのものの管理が次第と困難となり、大運河が通行不可能となるとたちまちのうちに長安での食糧価格の高騰に発展し、貧困層の中には餓死するものも相次ぐようになる。唐の滅亡直前に王朝簒奪を狙う朱全忠によって都が洛陽に移されると長安が再び都になることは無かったのである。
五代以降
長安は唐末の戦乱で荒廃したため、首都は東の洛陽に移された。唐を滅ぼして後梁を建てた朱全忠は首都をさらに東の開封に移した。これにより首都機能を失った長安の城壁は縮小され、一地方都市となった。明の時代に、長安への遷都論が唱えられた事があったものの、既に唐の時代には食料等の搬入の面で致命的な弱点を露呈させていた長安が都に返り咲く余地は無く、名を西安(せいあん)と改められた。
西安市の友好都市提携都市:
京都(日本)
福岡県飯塚市(日本)
千葉県船橋市(日本)
奈良県奈良市(日本)
ドルトムント(ドイツ)
エディンバラ(スコットランド)
エスファハーン(イラン)
ヨハネスブルグ(南アフリカ)
カンザスシティ(アメリカ)
カトマンズ(ネパール)
ラホール(パキスタン)
ポー(フランス)
ケベックシティ(カナダ)
イスタンブル(トルコ)
ジッダ(サウジアラビア)
西安の歴史事件と物語
1、 焚書坑儒:
(ふんしょこうじゅ)は、秦(現:中国)で発生した弾圧事件。焚書坑儒とは、「書を燃やし、儒者を坑する(儒者を生き埋めにする」の意味。
秦の始皇34年(紀元前213年)、博士淳于越は郡県制に反対し、いにしえの封建制を主張した。史記によると、丞相の李斯は、儒者たちが古え(いにしえ)によって現政府を批判していると指摘し、この弾圧を建議した。始皇帝はこの建議を容れて挟書律を制定、医学占い農業以外の書物の所有を禁じた。古くから伝わる諸子百家の思想は、李斯が押す法家の思想を除き、彼らの仕事が記された書物は燃やされてしまう(焚書)。また秦の始皇帝の統治を脅かす歴史書も燃やされ、自らの視点の歴史を記した。李斯は、秦の歴史家によるものを除いて、すべての史書は燃やすべきであると主張し、各諸派によって書かれた書物は、地域の官僚に処分をするよう命令が出された。儒教の経典である六経のうちの楽経はこの時失われ漢代に五経として確立された。
翌年(紀元前212年)、廬生や侯生といった方士や儒者が始皇帝が独裁者で刑罰を濫発していると非難し逃亡したため、咸陽の方士や儒者460人余りを、生き埋めにし虐殺した(坑儒)。
紀元前206年、漢の高祖劉邦が秦を滅ぼし、その後恵帝の時代になり紀元前191年11月挟書律が廃止された。
なお、魯迅や中国共産党は、始皇帝は当時においては進歩的な立場であり、焚書坑儒を進歩的な行為だとし、肯定している。
2、 遣唐使
7〜9世紀(せいき)に,日本から唐(とう)(中国)に送られた使節(しせつ)。
〔遣唐使(けんとうし)の派遣(はけん)〕 遣隋使(けんずいし)にひきつづき,遣唐使(けんとうし)は630年の犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)の派遣(はけん)に始まり,894年に菅原道真(すがわらのみちざね)の提案(ていあん)によって廃止(はいし)されるまで,十数回派遣(はけん)された。目的(もくてき)は唐(とう)との友好(ゆうこう)をたもち,すぐれた唐(とう)の制度(せいど)や文化をとりいれるとともに,朝鮮(ちょうせん)など東アジアの情報(じょうほう)を得(え)ることにあった。遣唐使(けんとうし)船には大使副使(ふくし)のほか,留学生(りゅうがくせい)や留学僧(りゅうがくそう)が乗りこみ,ふつう400〜500人が4せきの船で渡海(とかい)した。最初(さいしょ)は朝鮮(ちょうせん)半島ぞいの北路をとった。しかし,8世紀(せいき)に新羅(シルラ)との関係(かんけい)が悪化すると,東シナ海の荒海(あらうみ)を横断(おうだん)する南路がとられた。
〔コーチ〕まだ造船(ぞうせん)や航海術(こうかいじゅつ)が未熟(みじゅく)であった当時,航海(こうかい)はたいへん危険(きけん)で遭難(そうなん)することも多かった。
〔唐(とう)文化の伝来(でんらい)〕 危険(きけん)をおかして唐(とう)にわたった人に,阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)吉備真備(きびのまきび)玄山上憶良(やまのうえのおくら)最澄(さいちょう)空海(くうかい)らの留学生(りゅうがくせい)留学僧(りゅうがくそう)がおり,かれらがもたらした書籍(しょせき)や経典(きょうてん),また唐(とう)の新しい制度(せいど)や文化は,日本の律令(りつりょう)体制(たいせい)の整備(せいび)や文化の発展(はってん)に役だった。また,鑑真(がんじん)*のように,たび重なる遭難(そうなん)にもめげずに遣唐使(けんとうし)の帰国船で日本に来た僧(そう)もいた。
有名な遣唐使:阿倍仲麻呂(アベノナカマロ)、吉備真備(キビノマキビ)、玄昉(ゲンボウ)、井真成(せいしんせい)、最澄(サイチョウ)、空海(クウカイ)、橘 逸勢(タチバナノハヤナリ)、円仁(エンニン)。
西安の歴史人物
1、秦始皇帝:
(しこうてい、紀元前259年1月 - 紀元前210年7月)は、中国秦の王ないし皇帝。姓は嬴(えい)、氏は趙(ちょう)、諱は政(せい)。現代中国語では、始皇帝(シーホワンディー、Shǐ Huángdì)または秦始皇(チンシーホワン、Qín Shǐ Huáng)という。
もともと秦の王であり、紀元前246年 - 紀元前210年の間在位して初めて中国を統一し、紀元前221年から中国史上はじめて皇帝と称した。
政の容貌や性格について、史記には「鼻が高く、目は切れ長で、声は豺狼(ヤマイヌ)の如く、恩愛の情に欠け、虎狼のように残忍な心の持ち主」と記載されている。
紀元前246年、荘襄王は死に、13歳にして政が秦王となった。秦は六国の韓趙魏楚燕 斉を次々と滅ぼし、紀元前221年中国を統一した。
戦国時代には、七国の君主すべてが王を名乗っていた(ただし一時期、秦王が西帝、斉王が東帝と称したことはあった)。統一という大事業を成し遂げた後の新時代には、そのような旧来の称号はふさわしくないと考えた政は、家臣たちに新しい称号を考えるように命令した。
家臣たちは、「むかし天皇(てんこう)、地皇(ちこう)、泰皇(たいこう)の三皇がおり、その中で泰皇が最も尊かったといいます。陛下はこの泰皇の名を取り、新しい称号にすればよいと存じます」と言った。しかし、政は以前にあった名前を使うことが気に入らず、「泰皇の泰を取り、太古の帝号を付け皇帝と号することにする」と宣言した。
このときに併せて王命を制、王令を詔、天子の自称を朕(後に真人に改めた。ただし、使用は始皇帝のみで、彼の死後、再び朕に戻される)と呼ぶことに決めた。更に、諡号の制度は子や臣下が先君を批判することになるので不敬だからと廃止することに決め、以後は自分を始皇帝とし、二世皇帝、三世皇帝...万世皇帝と永遠に続けていくとした。
始皇帝は、民間人の武器所持を禁じ没収し、中国が一つになったことを宣言するために、それを溶かして巨大な像を作った。さらに度量衡(度(長さ)量(体積)衡(重さ)の単位)、貨幣、車の幅を統一(『軌を一にする』の故事)した。また文字では、秦で使われていた漢字を全国で使うように定めた。そして行幸を重ね、全国の交通の整備を進めた。
始皇帝は大土木事業を好み、これが外征への負担と並んで民衆を圧迫したため、暴君とされる理由の一つとなっている。ただし、万里の長城建設は必要性の高い事業だった。匈奴は始皇帝の少し後の時代に冒頓単于が立って強大になり、秦を倒した前漢に大勝している。その前から匈奴が強勢になりつつあったからこそ、長城を築き、蒙恬に討たせたと言える。
しかし、首都咸陽の大拡張工事、美女を三千人集めたという阿房宮(「阿呆」の語源と言われる)、1974年に一部分である兵馬俑が発見されて、あまりの巨大さに研究者を驚倒させた始皇帝陵の造営などは、必要性に欠けた。財政に負担をかけ、その人夫徴用から陳勝呉広の乱が生まれたことからして、秦の崩壊の直接的な原因であるといえる。
2、 井真成:
(せいしんせい、いのまなり?、699年 - 734年(日本:天平6年、唐:開元22年))は、中国の古都西安で墓誌が発見された、奈良時代(中国の唐時代)の日本人留学生の姓名。日本名は不明。
「井真成」は、中華人民共和国で発見された墓誌に、日本人留学生として記されていた姓名である。
墓誌は、同国陝西省西安市内の工事現場から発見されたと、同国の西北大学が、2004年10月12日に発表した。墓誌は発見された後、一度個人の所蔵となったが、西北大学付属博物館が収集したものである。
墓誌には、日本人留学生の井真成が、開元22年(西暦734年)正月■(朔~十,廿のいずれか)日に死去したので、「尚衣奉御」の官職を遺贈されたなどと記されている。これは考古学的に、中国で発見された最初の日本人の墓誌であり、現存の資料のなかで日本の国号を「日本」と記述した最古の例である。
研究によれば、井真成は717年(養老元年)、多治比真人県守を大使とする遣唐使とともに渡唐したとされる。これは、阿倍仲麻呂や吉備真備と同時期の渡唐である。井真成の死去の前年である733年(日本:天平5年、唐:開元21年)には、多治比真人広成を大使とする遣唐使が渡唐し、翌年には留学生吉備真備らを連れて帰朝している。したがって、この遣唐使がまだ唐に滞在中に病死したものと考えられる。また、墓誌に日本という国名があることが興味深い。2005年(平成17年)12月には、NHKスペシャル「新シルクロード」で、井真成のイメージドラマが放送された。
3、 阿倍仲麻呂:
(あべ の なかまろ、文武天皇2年(698年) - 宝亀元年(770年))は奈良時代の遣唐留学生。唐で科挙に合格し、唐朝諸官を歴任して高官に登ったが、日本への帰国を果たせなかった。中国名を晁衡という。
孝元天皇の皇子、彦太忍信命の血を引く。698年阿倍船守の長男として大和国に生まれ、若くして学才を謳われた。717年(霊亀2年)多治比県守が率いる第8次遣唐使に同行して唐の都、長安に留学する。同期の留学生には吉備真備や玄昉がいた。科挙を受験して合格したので、725年洛陽の司経局校書として任官し、728年左拾遺、731年左補闕と官位を重ねた。 仲麻呂は李白や王維と親交があったという。
733年、多治比広成(県守の弟)が率いる遣唐使が来唐したが、さらに唐での官途を追求するため帰国しなかった。翌年帰国の途に就いた遣唐使一行はかろうじて第1船のみが種子島に漂着、残りの3船は難破した。この時帰国した吉備真備と玄昉は第1船に乗っていて助かった。副使中臣名代の第2船は福建方面に漂着し、一行は長安に戻ってきた。名代一行を何とか帰国させると、今度は崑崙国(チャンパ王国)に漂着して捕らえられ、中国に脱出してきた遣唐使判官平群広成一行4人が長安に戻ってきた。平群広成らは仲麻呂の奔走で渤海経由で帰国することができた。
752年、藤原清河率いる遣唐使一行が来唐した。すでに在唐35年を経過していた仲麻呂は清河らとともに翌年帰国を図り、王維は「秘書晁監(ようかん:仲麻呂の現地名)の日本国へ還る」の別離の詩を詠んだ。しかし、仲麻呂や清河の乗船した第1船は暴風雨に遭って南方へ流される。このとき李白は彼が落命したと思い、「明月不歸沈碧海」の七言絶句「哭晁卿衡」を詠み、友を悼んだ。幸い、かって平群広成らが流されたのと同じ漂流ルートであり、船は安南の驩州(現ベトナム中部ヴィン)に漂着した。今回は中国領内だったので、755年には長安に帰着している。この年、安禄山の乱が起こり、藤原清河の身を案じた日本が渤海経由で迎えを寄越したが、唐朝は行路危険であるとして清河らの帰国を認めなかった。
仲麻呂は帰国を断念して唐で再び官途に就き、左散騎常侍(従3品)から鎮南都護安南節度使(正3品)として再びベトナムに赴き総督を務めた。761年から767年まで6年間もハノイの安南都護府に在任した。最後は潞州大都督(従2品)を贈られている。日本への帰国を叶えられることなく、770年に72歳の生涯を閉じた。
百人一首にも選ばれ遺されている、有名な『天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも』(753年)の歌は、帰国する仲麻呂を送別する宴の際に王維ら友人の前で日本語で詠ったなど諸説あるが、同じ歌の漢詩バージョンが五言絶句で存在する。
翹首望東天
神馳奈良辺
三笠山頂上
思又皎月圓
(読み下し文:首を翹げて東天を望めば、神は馳す奈良の辺り。三笠山頂の上、思えば又皎月円ならん。)
この五言絶句は陝西省西安市にある興慶宮公園の記念碑と、江蘇省鎮江にある北固山の歌碑に刻まれている。
4、 空海
空海(くうかい)は、平安時代初期の僧。「弘法大師(こうぼうだいし)」の名(諡号〈醍醐天皇、921年贈〉)で知られる、真言宗の開祖。俗名は佐伯 眞魚(さえき の まお、〈まなとも〉)。日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)とともに、旧来のいわゆる奈良仏教から新しい平安仏教へと日本仏教が転換していく流れの劈頭に位置し、中国から真言密教をもたらした。能書家としても知られ、嵯峨天皇橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられる。