中国敦煌観光・敦煌旅行・敦煌への旅・敦煌ホテル情報
敦煌観光案内~敦煌観光・敦煌旅行・敦煌 莫高窟観光・シルクロード旅行~
敦煌市(とんこう-し)は中国甘粛省北西部の都市。かつてシルクロードの分岐点として栄えたオアシス都市。近隣にある莫高窟とそこから出た敦煌文献で有名である。歴史的な敦煌は現在の敦煌市と瓜州県を合わせた領域にほぼ重なる。
敦煌の人口と敦煌の面積:
敦煌市の総面積は31200km²で、敦煌市の総人口は13万人である。
敦煌の地理
青蔵高原の北縁、河西走廊の西端にあり、古くから中国と西域との出入口として使われる。西にはタリム盆地が広がり、北にはゴビ砂漠、南は祁連山脈とツァイダム盆地を望む。
年平均気温9℃、降水量39mm。作物は主に綿花、小麦、トウモロコシ、果物など。
約250キロメートル東に玉門、300キロメートル北に新疆ウイグル自治区のクムル(ハミ)が位置している。
敦煌観光地案内:
莫高窟(世界遺産):
敦煌市の東南25kmに位置する鳴沙山(めいささん)の東の断崖に南北に1,600mに渡って掘られた莫高窟・西千仏洞・安西楡林窟・水峡口窟など600あまりの洞窟があり、その中に2400余りの仏塑像が安置されている。壁には一面に壁画が描かれ、総面積は45,000平方メートルになる。敦煌石窟・敦煌千仏洞と言った場合、広義ではこの全てを含むことになるが、歴史・規模・内容全てに渡って莫高窟が圧倒しているために敦煌石窟・敦煌千仏洞と言った場合でも莫高窟のことを指すのが普通である。
作られ始めたのは五胡十六国時代に敦煌が前秦の支配下にあった時期の355年あるいは366年とされる。仏教僧・楽僔(らくそん、僔は人偏に尊)が彫り始めたのが最初であり、その次に法良、その後の元代に至るまで1000年に渡って彫り続けられた。現存する最古の窟は5世紀前半にここを支配した北涼の時代のもので、それ以前のものは後世に新たに掘った際に潰してしまったようである。窟のうち、北部は工人の住居となっており、ここには仏像や壁画は無い。
壁画の様式としては五胡十六国北涼、続く北魏時代には西方の影響が強く、仏伝・本生譚・千仏などが描かれ、北周・隋唐時代になると中国からの影響が強くなり、『釈迦説法図』などが描かれるようになる。期間的に最も長い唐がやはり一番多く225の窟が唐代のものと推定され、次に多いのが隋代の97である。北宋から西夏支配期に入ると、敦煌の価値が下落したことで数も少なくなり西夏代のものは20、次の元代の物は7と推定されている。この頃になると敦煌はまったくの寂れた都市となっており、以後は長い間、莫高窟は忘れられた存在となる。
この莫高窟が再び注目を浴びるのが、1900年の敦煌文献の発見によってである。詳しくは敦煌文献の項を参照。しかしその後も莫高窟自体にはあまり注目が集まらず、その価値が認められ、保護が行き届くようになるのは中華人民共和国成立以後のこととなる。
鳴砂山・月牙泉
嘉峪関
嘉峪関とは甘粛省嘉峪関市にある万里の長城最西部に位置する関。山海関とならび、万里の長城で重要な関として知られている。
嘉峪関は周囲733mを高さ11mの城壁に囲まれ、内域は33,500㎡以上である。黄土を版築でつき固めた城壁であり、西側は煉瓦を積み重ねて出来ている。東西にそれぞれ楼閣(門楼)と甕城を持つ城門を備え、東を光化門、西を柔遠門という。西門には「嘉峪関」の扁額がかかっている。関の南北は万里の長城とつながり、城壁の隅角部には櫓が設けられている。2つの門の北側には関の最上部に上ることが出来る通路がある。嘉峪関の防御設備は大別して内郭、外郭、堀の3つとなっている。
万里の長城につながる関の中で唯一建設当時のまま残される建造物である。最東端にある山海関が「天下第一関」と称されるのに対し、嘉峪関は「天下第一雄関」といわれている。東西シルクロードの要衝の一つであり、周囲には敦煌莫高窟のような著名な史跡が存在し、多数の漆喰壁画が見つかっている。
敦煌のホテル情報~敦煌ホテル予約~
1、敦煌賓館(4星) 場所:中国敦煌鳴山路12号
2、敦煌太陽大酒店(4星)場所:中国敦煌沙州北路5号
敦煌への旅・敦煌旅行の関連ツアー:
1、http://www.tasaixa.com/list_content.asp?cListInfo_ID=107
2、http://www.tasaixa.com/list_content.asp?cListInfo_ID=106
3、http://www.tasaixa.com/list_content.asp?cListInfo_ID=105
4、http://www.tasaixa.com/dunhuang.asp